11.24.20:27
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03.22.23:35
必ずって思わないとやりきれませんよ(「黒部の太陽」後編)
そうなのかもしれません。
ついつい私は、“必ず”なんて存在しないと思ってしまいます。だから使うのを躊躇ってしまう語句です。
けれど、そう思わなければ、やりきることができないかもしれないことがあるのでしょう。そうやって無理矢理にでも思い込んで、自分に暗示をかけて願をかけて、その仕事に命を捧げるんですね。
ホント、格好良いとしか言えない生き方です。
さて、本日は「黒部の太陽」後編が放送されました。(前編、言葉の説明については前記事参照)
皆さんは、それぞれどのような思いを抱いたのでしょうか、どのように考えたのでしょうか。
黒部の太陽は、どれくらい眩しかったのでしょう。
苦しみという闇から、頭を使いながらも死に物狂いで這い出た彼らは、希望の光を身体一杯に受け止めたのでしょう。おそらくそれは、私たちには想像できない程気持ち良く、清々しく、神々しいものだったのかもしれません。彼らに、そんな感情を抱いている暇はなかったのかもしれませんが。
もちろん、現場で命を懸けた彼らだけが浴びた光ではないでしょう。
自ら危険な場所に足を運び、下請けを上座に座らせ自ら頭を下げた社長。今では存在するのか分からない存在ではないでしょうか。
現在、このような行為は軽くできるものかもしれません。しかし当時は、とても価値があり、とても普通にできることではなかったはずです。それを社長という会社のトップが自ら行う、誰もが想像もしなかったことなのかもしれません。
あんな社長の会社が生き延びてゆくのなら、どんなに素敵な社会になるのでしょうね。
実際に裸踊りをして人々を惹き付ける人もいれば、現場で働く男を支えるために歯を食いしばる女もいる。
白血病のことを伝えるか否か。
どちらが正解か、誰も分からないのかもしれません。それぞれに、それぞれの正義や理論があるのです。
誰が後悔して誰が苦しむのか。あらゆる方向から考えても結論を出すのは難しいでしょう。
当時の男性なら、親方のように知らされても仕事を優先させる責任感と、計り知れない強さがあったのでしょう。
私も、見習わなくてはいけない、真似できるか分からない強さです。
ただ、優先させた方が良いのは、死にゆく者の気持ちかもしれません。後に残された者が、それから明るく考えていけるかどうかは、死にゆく者の気持ちを優先できたかどうかということも関わってくると思います。
「おくりびと」に通ずるところもありますね。
とりあえず私なら、病気のことは知らせてもらいたいですね。たとえ数ヶ月も持たない命でも、自暴自棄になるかもしれませんが、覚悟というのをしたいものです。
死までに、やっておきたいこともありますからね、優先させて。
知らされなくても、光子ちゃんのように悟ってしまうでしょうがね。誰でも、どんな生き物でも、自分の命の灯火が消えそうなことには気づくそうですから。
今回このドラマを見て、色々言いたいことはあるんです。
ですが、何を言って良いのか分かりません。何を言ったら適切なのか分かりません。
一つ、今の日本人に、いえ、今の先進国の多くの人間に共通して言えることは、贅沢をし過ぎだと言うことでしょう。
関電が素晴らしいことをやってのけたことにかわりはありません。
けれど今、私たちは欲張り過ぎではないでしょうか。
光に溢れ過ぎ、当時のような有り難さは感じられません。
かく言う私も、電気の有り難さが身に染みることはありません。
地震などで停電すれば、分かるのかもしれません。
それでも、命を懸けて、命を捨ててまで電気を繋げようとした彼ら、トンネルを貫通させようとした彼らが作り上げた電気の、黒部の太陽の有り難さは、彼らだけにしか分からないのかもしれません。
あの仕事に携わったすべての人々、彼らの特権、彼らだけの黒部の太陽なんですね。
その有り難さを噛み締めることができるように、先進国の電気は減らした方が良いのかもしれません。
確か、電気の有り難さを分からせようと州を停電させた話があったと思います、アメリカの映画で。
こんな偉そうなことを言っても、私もこうやってPCを使っている訳ですから、なんと言えば良いのか分かりませんね。
500人以上の死者行方不明者が出たと言われている黒四の一連の工事、というより色んな意味で大事件。
彼らを賛美し、ご冥福をお祈りしたいと思います。もちろん、最後までやり遂げた人々をも賛美したいと思います。
賛美なんて言うと余計偉そうなのですが、他に良い言葉が思い浮かばなくて…すみません。
P.S. そういえば、あの風景も素晴らしかったですね。
今度行ってみたいと思わせるものでした。
引き蘢りのくせに、意外と山登りも好きなんですよ、私(苦笑
大自然って、本当に素敵ですよね。
解放された感じだけではなく、言葉にできない全てが。
ついつい私は、“必ず”なんて存在しないと思ってしまいます。だから使うのを躊躇ってしまう語句です。
けれど、そう思わなければ、やりきることができないかもしれないことがあるのでしょう。そうやって無理矢理にでも思い込んで、自分に暗示をかけて願をかけて、その仕事に命を捧げるんですね。
ホント、格好良いとしか言えない生き方です。
さて、本日は「黒部の太陽」後編が放送されました。(前編、言葉の説明については前記事参照)
皆さんは、それぞれどのような思いを抱いたのでしょうか、どのように考えたのでしょうか。
黒部の太陽は、どれくらい眩しかったのでしょう。
苦しみという闇から、頭を使いながらも死に物狂いで這い出た彼らは、希望の光を身体一杯に受け止めたのでしょう。おそらくそれは、私たちには想像できない程気持ち良く、清々しく、神々しいものだったのかもしれません。彼らに、そんな感情を抱いている暇はなかったのかもしれませんが。
もちろん、現場で命を懸けた彼らだけが浴びた光ではないでしょう。
自ら危険な場所に足を運び、下請けを上座に座らせ自ら頭を下げた社長。今では存在するのか分からない存在ではないでしょうか。
現在、このような行為は軽くできるものかもしれません。しかし当時は、とても価値があり、とても普通にできることではなかったはずです。それを社長という会社のトップが自ら行う、誰もが想像もしなかったことなのかもしれません。
あんな社長の会社が生き延びてゆくのなら、どんなに素敵な社会になるのでしょうね。
実際に裸踊りをして人々を惹き付ける人もいれば、現場で働く男を支えるために歯を食いしばる女もいる。
白血病のことを伝えるか否か。
どちらが正解か、誰も分からないのかもしれません。それぞれに、それぞれの正義や理論があるのです。
誰が後悔して誰が苦しむのか。あらゆる方向から考えても結論を出すのは難しいでしょう。
当時の男性なら、親方のように知らされても仕事を優先させる責任感と、計り知れない強さがあったのでしょう。
私も、見習わなくてはいけない、真似できるか分からない強さです。
ただ、優先させた方が良いのは、死にゆく者の気持ちかもしれません。後に残された者が、それから明るく考えていけるかどうかは、死にゆく者の気持ちを優先できたかどうかということも関わってくると思います。
「おくりびと」に通ずるところもありますね。
とりあえず私なら、病気のことは知らせてもらいたいですね。たとえ数ヶ月も持たない命でも、自暴自棄になるかもしれませんが、覚悟というのをしたいものです。
死までに、やっておきたいこともありますからね、優先させて。
知らされなくても、光子ちゃんのように悟ってしまうでしょうがね。誰でも、どんな生き物でも、自分の命の灯火が消えそうなことには気づくそうですから。
今回このドラマを見て、色々言いたいことはあるんです。
ですが、何を言って良いのか分かりません。何を言ったら適切なのか分かりません。
一つ、今の日本人に、いえ、今の先進国の多くの人間に共通して言えることは、贅沢をし過ぎだと言うことでしょう。
関電が素晴らしいことをやってのけたことにかわりはありません。
けれど今、私たちは欲張り過ぎではないでしょうか。
光に溢れ過ぎ、当時のような有り難さは感じられません。
かく言う私も、電気の有り難さが身に染みることはありません。
地震などで停電すれば、分かるのかもしれません。
それでも、命を懸けて、命を捨ててまで電気を繋げようとした彼ら、トンネルを貫通させようとした彼らが作り上げた電気の、黒部の太陽の有り難さは、彼らだけにしか分からないのかもしれません。
あの仕事に携わったすべての人々、彼らの特権、彼らだけの黒部の太陽なんですね。
その有り難さを噛み締めることができるように、先進国の電気は減らした方が良いのかもしれません。
確か、電気の有り難さを分からせようと州を停電させた話があったと思います、アメリカの映画で。
こんな偉そうなことを言っても、私もこうやってPCを使っている訳ですから、なんと言えば良いのか分かりませんね。
500人以上の死者行方不明者が出たと言われている黒四の一連の工事、というより色んな意味で大事件。
彼らを賛美し、ご冥福をお祈りしたいと思います。もちろん、最後までやり遂げた人々をも賛美したいと思います。
賛美なんて言うと余計偉そうなのですが、他に良い言葉が思い浮かばなくて…すみません。
P.S. そういえば、あの風景も素晴らしかったですね。
今度行ってみたいと思わせるものでした。
引き蘢りのくせに、意外と山登りも好きなんですよ、私(苦笑
大自然って、本当に素敵ですよね。
解放された感じだけではなく、言葉にできない全てが。
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